宮沢りえ&牧瀬里穂&観月ありさをまとめて、3Mと呼ぶ時代があった
宮沢りえ、観月ありさは最近もよくメディアに登場するが、最近あまり見ない牧瀬里穂の頭文字を合わせて3Mと言う。90年代に他を圧倒する美女集団として名を馳せた。しかしながら、おもしろいことにあれから20年経っても3人が顔を合わせたことが無いという。
3Mと呼ばれながらも共演したことが無いことが発覚したのが、7日放送されたフジテレビ系「ヨルタモリ」での宮沢りえと観月ありさの共演であった。この番組で初めて、宮沢りえと観月ありさは声を交わしたという。「ありさちゃんとお話するの、初めて」(宮沢)、「実はそうなんです」(観月)と言っていた。
簡単に3Mのおさらいをしておくと、宮沢りえは当時、ふんどしカレンダーやヘアヌード写真集『サンタフェ』などの奇想天外な話題と、マネージャーを務めていた母親(通称・りえママ)の存在とで注目されていた。観月ありさはレナウンや富士フィルムのフジカラーなど数多くのCMでひっぱりだこだった。
牧瀬里穂は後に伝説のCMと言われる1989年JR東海・クリスマス・エクスプレスのCMで爆発的な人気を得る。その後、デビュー作となった相米慎二監督の『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)、市川準監督の『つぐみ』(1990年)で毎日映画コンクール新人賞など各映画賞の新人賞を総なめにする。
3Mで芸能界を休業した牧瀬里穂の旦那はNIGO
日本アカデミー賞「優秀主演女優賞」を受賞したこともあり、美貌も女優としての実力も十二分にあった牧瀬里穂だったが、人気絶頂のときにまさかの結婚と芸能界休業だった。そしてその相手がNIGOである。こちらも若者に絶大な人気があったファッションデザイナーである。
「A BATHING APE」(ア・ベイシング・エイプ)の創業者として活躍していたが、絶頂は未来永劫つづくものではない。当時は年商70億と言われていた彼のブランドも気づけば負債総額40億円と言われるほどの火の車状態だったようだ。
家計を助けるためか牧瀬里穂は、16年ぶりにCM出演を決めた。商品は「白髪染め」だった。商品が商品だけに年齢を感じざるを得ないのだが、それでも劣化せずにさすが女優だと言わしめるほどのオーラがあったというのが世論の評価であった。
当時の人気度でいえば、宮沢りえが群を抜く存在で次に観月ありさ、そして牧瀬里穂というランキングだった気がする。特に牧瀬里穂は芸能界を休業してしまったのもあって今に至るまで観月ありさと宮沢りえには人気度は敵わないだろう。