数多に存在するカメラコンテストで入賞し大賞を取っていくようなハイアマチュアカメラマンやプロカメラマンと、コンテストで入賞にかすりもしないようなアマチュアカメラマンの違いは何かを考えていました。仮に前者を良いカメラマンとした場合、その人たちに共通する能力は何なのかということです。
そもそも写真というのは、現実の切り取りであり記録メディアなのです。絵画と違って写真がオークションで高値がつかないのは、歴史が浅いという時間的希少性の欠如にあります。さらに、写真は現実のコピーであるがゆえに絵画に比べて再現しやすいというオリジナリティーの欠如問題があります。
しかしオークションで高値がつかないからと言って、芸術性に欠けることを意味していません。絵画と違って奇跡の一枚はプロでなくとも撮影できるし、誰もが認めるアーティスティックなプロカメラマンが活躍する芸術の1ジャンルです。絵画とだけ比較したとしても、写真は写真の芸術性はあります。どんな写真家が芸術性に長けたカメラマンなのかということが謎なのです。
良い写真家というのはどういう人の事を指すのか、もっと極端に言えばどんな能力が必要なのかという問です。芸術は個人的な価値判断の極みです。だから、良い悪いは判断がつかないはずです。ただ、ひとつだけあるとしたら、写真家にとって最も重要な能力は「決断力」だろうと思っています。
現実を切り取る写真家にとって唯一できることは、何を切り取り何を写し、何を写さないかを決めること。これだけです。何をファインダーから外すのかを決定する以外にできることは、明るさを調整する程度です。
ごく僅かな光量の変化に一喜一憂しているようでは、良い写真家になれないと常々思っています。
大胆に切り取り、大胆に切り抜く。それは出来上がったデータをトリミングするという意味ではなく、ファインダーを覗いた瞬間から意思決定は始まってるということです。「写真は引き算」とよく言われるように、この決断力がないと散漫とした写真しか生み出せないでしょう。シャッターチャンスを逃したのは、シャッターを押さないという意思決定をしたに過ぎません。
私自身も、ある時シャッターチャンスを逃した事がきっかけで写真を勉強し始めました。でも、どれだけ露出やF値やレンズの仕組みを勉強しても、上手くなるのはほんの半歩です。一歩成長したと感じられるのは、自分が評価した撮影者が、なぜこの決断をしたのかなぜこの時間、このタイミング、この被写体を選んでシャッターを押したのかを考える時こそ、見る側の勉強時間ではないでしょうか。
つまり決断力というのは、
被写体の動きや未来を予想し、いつ切り取るのかという時間的な決断力
切り取る必要がないものをファインダーから外すという平面的な決断力
この2つの決断力をもっている写真家こそが、良い写真家だと考えています。しかし、忘れてはいけないのは「良い」かどうかの判断は、見る側の判断であり、見る側は全員平等であるということです。権威あるコンテンストのグランプリを取った写真が、あなたや私にとって良い写真であるわけでは無いわけです。
F1レースでグランプリを取ったレーサーがいたら、良いレーサーつまり早いレーサーであることは誰にも侵害されません。これはスピードがレースジャンルでの共通の価値尺度だからです。しかし写真の良し悪しは、いつでもどこでもいつまでも個人の判断です。だから写真は芸術なのです。